『ストレイト・アウタ・コンプトン』を観てきた。
(このページはメモリアルのためにつくっているけれど、今日の分は例外)
先行ロードショーの三日目。
平日の午前中とはいえ、盛況だ。
正直、期待を大きく上回る完成度とパワーに圧倒されっぱなしの、2時間半。
これは、ブラックシネマの頂点を極めたといっていい傑作ではないか。
映画館の大画面と大音響で鑑賞するのがふさわしい作品は、年々ますます少なくなっている。
まして、もう一度、この映画館に来てみたいと思わせるものなんて……。
この作品ほど映画という「環境」の偉大さをストレイトに発信するものは、近年ほんとうに見当たらない。
監督は『セット・イット・オフ』のF・ゲイリー・グレイ。
上画像の後列が、アイス・キューブ、 F・ゲイリー・グレイ、ドクタ・ドレー。
50セントの『ゲット・リッチ・オア・ダイ・トライン』にしろ、ビギー・スモールの『ノトーリアスB.I.G』にしろ、ギャンダスタ・ラッパーの伝記映画(サクセス・ストーリー)に期待するものはあまりなかった。
せいぜいが、CDアルバムの付録につく特典映像みたいなものか。
最近の『ジェームズ・ブラウン』にしても、「偉人伝」の様式になっているところが気色悪い。
しかもその偉人の業績には、いたるところに「ただし黒人の」という注釈が注意深く、しかし目立ちすぎないような細心の配慮をもって刻まれているのだ。
こうしたポリティカル・コレコクネスの産物を、ブラツクシネマと呼ぶことは出来ないだろう。
N.W.A.の軌跡は、伝説をつくる素材に事欠かなかった。
成功とともにやってきたメンバー同士の反目、仲間の早すぎる死、デスロウ・レコードをめぐる数々のスキャンダル、「ファック・ダ・ポリス」への警察組織の過剰反応、ラッパー仲間の内ゲバを煽る興行師……。
もちろん、材料豊富なだけでは、傑作はつくれない。
ここには、監督グレイをはじめとする制作者・出演者の初志がある。
ブラックシネマの原点、N.W.A.(主張あるニガズ)の主張の原点、それを回復しなければならない。
これは、ロス暴動に収斂していった「一つの時代」の回顧ではない。
終わってしまった「伝説の季節」を美化するものではない。
自然と口をついてくる「ファック・ダ・ポリス」の叫びは、まったく現在のものだ。20年前と変わらぬ現在のものだ。
ブラザー、何も変わっちゃいない。